Special Report レポート

萩原麻未さん、ベネズエラへ行く

interview & words 青澤隆明

パリ音楽院で学ぶ萩原麻未さんが、ジュネーヴ国際コンクールの最終ステージに立ったのは2010年11月のことだった。第1位をなかなか出さない難関コンクールに、日本人として初めての優勝に輝き、一躍世界の注目を集めてから、もうすぐ3年が経とうとしている。しかしその間、萩原さんは決して慌てた様子もなく、じっくりとマイペースで自分の個性を育んできたようにみえる。

音楽家というのは、ほんらい息の長い仕事だ。ピアノを弾くことに萩原さんが夢中になってから、ピアニストとしての活躍を始めるまでにも、すでに20年近い歳月がかかっている。しっかりと自分を見据えて、自分の足でたしかに歩いていくことが、なによりも大切なのだと、萩原さんは充分に知っているに違いない。

ベネズエラの社会教育システム「エル・システマ」への関心が高じて、萩原麻未さんがカラカスへと旅立ったのは6月のこと。「エル・システマ」が生まれ育った土地で、ユース世代による若者たちのオーケストラと共演した。音楽監督のディートリヒ・バレーデスが指揮する「エル・システマ・ユース・オーケストラ・オブ・カラカス」と、グリーグのピアノ協奏曲をいっしょに演奏したのだ。10月には広島と東京で、彼らとの再会が約束されている。

そんな折、萩原麻未さんにメールでのインタヴューを試みた。パリを拠点に、ヨーロッパ各地で演奏しつつ、研鑽を積む萩原麻未さんは今年7月初旬、急な飛行機での移動をはさんだお忙しいさなか、ひとつひとつの質問にていねいな答えを書き送ってくれた。

なお、このときには私はまだ知らなかったが、2013年6月8日、カラカスのシモン・ボリバル・ホールでのそのコンサートはライヴ・レコーディングされていて、この秋に福島復興支援のチャリティーCDとして発売されることになった。

<はじめに>

──ジュネーヴ国際コンクールで注目を集められてから3年になりますね。それ以前と以後の変化も含めて、この数年の音楽家としての歩みを、萩原さんご自身はどのように振り返られますか?

コンクール以前は学生として生活していましたから、コンクール後に公の場で演奏する機会が急に増え、正直、戸惑いました。もちろん、演奏を通して作曲家の真意に近づきたいという想いは以前からありましたし、「こう弾いたらもっと作曲家の意図に近づけるのではないか」というアイデアを、ピアノで表現したいという欲求も前々からありました。しかし、それを公の舞台でプロフェッショナルな演奏家として行うことは次元が違いますし、勇気もいります。パリ音楽院で素晴らしい先生に師事していましたので、まだまだ勉強に専念すべきではないかという想いも強かったです。そうした中でわいていたプレッシャーが、時とともに自分の中で自然に解消されてきたのを、今、感じています。それは特に、協奏曲や室内楽で共演した方々とのコミュニケーションを通して生じた変化だと思います。

──その間、音楽家として、またひとりの人間として、意識のうえでもっとも変化したことはなんですか。

演奏家が社会に対して何かできることはないのか…ということをより強く意識するようになった気がします。

──5歳でピアノを始められてから現在にいたるまで、先生方を含めて、さまざまな人の教えや励ましがあったと思います。いま演奏家としてのご自身を支える力となっている言葉や出会いのエピソードがあればお聞かせください。

やはり、私に外の世界を意識させてくださったジャック・ルヴィエ先生との出会いは、人生のターニングポイントだと思います。それまで18年間、広島に住み、ピアノが好きでひたすら練習していたわけですが、ルヴィエ先生にレッスンしていただいた時、もっと広い世界に飛び込んでみたい、パリに行ってみたい、ルヴィエ先生のレッスンをもっと受けたい、と直感的に思ったのです。先生はとても厳しいレッスンをされる方なのですが、先生のレッスンを通して、ただひたすら練習をするだけではなく、自分の演奏を客観的に聴くことができるようになりました。今は先生がもしも演奏会の会場に隠れて私の演奏を聴いていても恥ずかしくないような演奏をしたいと思っています。

──ピアノという楽器の、個人的にいちばん好きなところ、そしてもっとも自分に合っていると思うところはなんですか。また、ご自身がピアニストとして生きていく手応えをつかんだのはいつ、どんなきっかけがあってのことでしょう?

母親からの「ピアノ、習ってみる?」という一言をきっかけに偶然に出会った楽器です。偶然に相性が良い楽器に出会えたことは本当にラッキーだったと思います。弦楽器、とくにチェロが好きで、ヴァイオリンを始めてみようと試みたこともあるのですが、なぜか全然上達しませんでした…(笑)楽器を構える時点で挫折です(笑)

ピアノはソロ曲が多く書かれている楽器ではありますが、室内楽に特に魅力を感じています。とにかく楽しいです。共演者と自分の音楽の呼吸がぴったりと重なった時に、ピアノをやっていてよかったなとふと思います。

ピアニストとして生きていく手ごたえをつかんだ瞬間、というのは、多分ないと思います…。少なくとも、記憶にありません。

──ピアニストであるということは、萩原さんにとっては簡潔にいうとどんなことですか。職業、属性、性格、使命、自然、運命…、いろいろな言いかたがあるなかで、いちばんしっくりくるのはなんですか?

運命、でしょうか。ピアノが本当に好きでずっと弾き続けてきて、これからも弾いていきたい──それが今のところ現実になっていることは幸せなことだと感謝しています。

<エル・システマとの出会い:東京・広島での再会へ>

──今秋、日本での「エル・システマ・フェスティヴァル」での演奏を楽しみにしています。そもそも、萩原さんが「エル・システマ」に関心をもったきっかけと理由、今回のフェスティヴァルへの参加の動機をお話しいただけますか。

知り合いから「『エル・システマ』というクラシック音楽の教育システムがベネズエラにあるんだけど、知ってる?」と言われて、はじめて「エル・システマ」のドキュメンタリー・ビデオを観た時に、とにかく心動かされました。音楽って人生をこんなに前向きに変えられるパワーを秘めているんだな、すごいな、と思ったんです。また、ビデオの中で演奏している人々が音楽を心から「エンジョイ」していて、とても大事なことを教わった気がしたのです。

その後、去年でしたが、2012年、ウィーンに「エル・システマ」に所属するオーケストラが来ると知って、演奏を聴きにいきました。それが、今年日本に来る「エル・システマ・ユース・オーケストラ・オブ・カラカス」でした。10代から20代前半の奏者から成る、力強くて元気なオーケストラです。

一人一人のメンバーが本当に真剣に、音楽をエンジョイしているんです。演奏が素晴らしくて、共演してみたいなと思いました。その時にバックステージに挨拶にいきましたら、「エル・システマ」の創始者のアブレヴ博士ともお会いできました。

──今年6月にはカラカスで、エル・システマ・ユース・オーケストラと共演されたそうですが、彼らとともに音楽することの楽しさについて、同オーケストラの魅力も含めてお聞かせください。実際にベネズエラを訪れた率直な印象もお聞かせいただけますか?

実は、家族は私がカラカスに行くことをとても心配していました。確かに治安は良くない国ですし、食べ物なども普段とがらりと変わりますから、私自身も心配がゼロだったとは言えません。

でも結果として、「エル・システマ」が生まれて「エル・システマ」が根付いている土地をこの目で見て、肌でその雰囲気を感じ、「エル・システマ」に一層近づくことができ、素晴らしい経験でした。

オーケストラのメンバーは皆とてもオープンで、気さくで、休憩中は「写真を撮ろう」等と言いながらひっきりなしに話しかけに来てくれました。私もフランス語や英語を駆使してできるだけ直接コミュニケーションが取れるよう努めました。数日間滞在したので、メンバーたちとも打ち解けて仲良くなれました。

演奏の相性はとてもよかったと思います。ただ単に、彼らが東京に来て共演する、というだけではなく、お互いにお互いの国を訪れることによって、お互いのリスペクトというのでしょうか、絆も強くなるのではないかなと思います。

──ご自身よりも若い年代のオーケストラとの共演に、なにか特別の思いはありましたか。

演奏している時は、年下と共演しているという意識は全くありません。オーケストラの熱気とやる気が物凄いので(笑)自分もそれに圧倒されないように演奏に臨んでいます。

──反対に、かなり年上にあたるホセ・アントニオ・アブレウ博士、彼と直接触れ合うなかで、つよく感銘を受けたのはどんなところですか。

博士はオーケストラや私が気の遠くなるような長時間のリハーサルをしていても必ずホールにいてくださり、ずっとそれを聴いてくださいます。もちろん、その過程で適切なアドバイスも沢山くださるのですが、何よりもまず、博士がつねに関心を持って寄り添ってくださっている、聴いてくださっている、ということに励まされます。

また博士は、音楽以外の社会的な事柄についてもいつも熟慮なさっています。たとえば今回の「エル・システマ」の日本ツアーでも、私の故郷・広島で演奏会を行うことにとてもこだわってくださったそうです。博士は今回カラカスで日本ツアーに向けたインタヴューを受けた際にも、「戦争や原爆の被害を乗り越えて発展した広島は希望の象徴である」とおっしゃってくださったそうです。

──故郷でのコンサートは、萩原さんにとって特別なものでしょうし、これまでも平和祈念コンサートなどに積極的に出演されていますね。ご家族も広島で生まれ育ち、戦中はこの地で被爆されたとききましたが、戦争の不幸についての率直な思いをお聞かせください。

はい、私は広島生まれ・広島育ちで、被爆3世にあたります。パリへ留学するまでの18年間、広島で過ごしました。小さなころから家や学校で、原爆という世にも恐ろしい武器が人々の身体と心をどれだけ苦しめたのか、そしてどれほどの威力で原爆が一瞬にして土地と人々を破壊してしまったのか、学びました。戦争がいかに意味のない行為であるか、どれだけの悲しみを人々にもたらしたのか、ということを、広島出身者という立場から、これからも語っていかなければならないと思っています。

海外で自分が広島出身であると言う際には、そうした重みも感じます。

一方で、かつて悲劇や不幸と結び付けられ、長期間再起不能だと言われていた広島は、今では復活して美しい都市となりました。広島は戦争の残酷さを語り続ける使命をもっていますが、アブレヴ博士もおっしゃっている通り、そうした「希望の象徴」でもあると思います。

──おしまいに、音楽以外で最大の関心事はなんでしょうか。いろいろあれば、いまいちばん興味があることをお聞かせください。

音楽以外で興味があるのは料理。ピアノの練習時間が長いので、その合間にパリの自宅で料理をしている時はとても落ち着きます(得意、とまでは 言えないのですが)。

パリには色とりどりのフレッシュな野菜がならぶ小さ目の八百屋さんがたくさんあります(オンディーブ[チコリー]とかアーティチョークとか、日本ではあまりよく見かけない野菜もあって、面白いです)。

パリの街をぶらぶら散歩しながら(パリは本当に歴史的な建物が並ぶ美しい街です)、八百屋さんやスーパーで道草して、野菜を触りながら一つ一つ選ぶのが好きです。

それからTVの料理番組を観るのも好きです!